KAGEROUにおける読後感についての考察

さっきKAGWROUについての感想をアップしたのですが、読後に残っていた違和感について後から思いついたところがあったので別に書いてみようと思います。

あくまでも私的見解ですので、ご意見は賜りますが、真っ向からの否定は受けかねますのでご了承願います。

尚、ネタバレを大いに含みますので、ネタバレを希望されない方は目を通さないようお願いいたします。

加えて、私の宗教観に関する記述もありますので、私個人の資質を否定する内容のコメントもお控えくださいますようよろしくお願いします。


えーとですね、全体的には面白く読めたのですが、読後感がスッキリしなくてしばらくもやもやしてたんです。
で、しばらく考えてて、どっかで抱いたことのあるもやもや感だな、と気づき、それはいつどこでなのかと一生懸命考えたんです。

そしたら…
宗教的なものが背景に色濃くある絵本を読んだ後だということに思い至ったんです。

最後、ヤスオが涙した理由って、自分が人の役に立てた充足感からだと思うんです。
大東泰雄としての人生は終わったけど、それでも尚自分の一部が人の役に立っているとう充足感。
これって『分け与える宗教』の感覚だと思うのです。

私は常日頃から、キリスト教が背景にある絵本を読むと「万物は神がお創りになったもの、足りぬ者には自分の持っているものを分け与えるのです」という思想を感じていました。

ヤスオの充足感はこの思想に基づくものなのではないかな、と思ったんです。

対して日本文化に根ざしている神道(信仰していなくても文化的には色濃く残っていると思っています)では、万物は神が創ったものではないし、分け合うものでもありません。
『お互いの不足を許し補い合う』宗教と感じています。

どちらも、自分以外の人間を思いやるという意味では共通しているかと思いますが、やはり別物です。

例えば、KAGEROUのラストが、脳を移植されたことによって新しい人生を歩むことになった幸運を喜ぶヤスオのシーンで終わっていたら、もっとストンと落ちていたと思うんです。

もしくは、別人生を歩むことになってしまったことへの戸惑いや不安を述べていたりとか。

施しの悦びを〆にしなければ、もうちょっとウケがよかったんじゃないかなあ、と思います。

もしかすると著者は、日本で移植が受け入れられない理由が宗教観にあると分かった上で、そのことも踏まえてこの物語を書いたのかもしれません。
だとしたらすごいことだと思います。
ですがその反面、ラストの落としどころの残念さはさらにつのりますが…。

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